あの悪夢から幾年 未だ深く残すダメージ

丁度幾年も前の今日、誠に恥ずかしながらですが僅か3ヶ月で半導体工場を切られてしまった。その前日次長に呼ばれ、自主退職という形での退職を強要され、さもなければ解雇という事となった。最終日の30日の午後は泣いてばかりで、はっきり言って仕事にならなかった。当時はこの様になるというリスクは全くと言っていい程想定していなかった。3ヶ月間まじめに仕事をしていれば何とかなるだろうと思っていた私が甘かったのか。

これは当時の自分から見て「地獄が始まる」と直感した。12月は宅配便のお歳暮のアルバイトを行ったが、「次長を殺してやる!」というトラウマの中だった。嫌で辞めたのと同じ扱いというのは絶対納得がいかなかった。通常解雇するには1ヶ月以上前に解雇予告を行うか、そうでなければ解雇予告手当を出さなければならない。はっきり言ってやり方が汚く、何が何でも抵抗しようと思った。

色々調べた所、会社側に折衝を行う事とした。次長宛に内容証明郵便を送付したが、それは解雇予告手当分を支給していただけなければ労働基準監督署に申告するという内容だった。無事に勝ち取る事ができ、1か月分の解雇予告手当が支給される事になった。とはいえ、その後の人生が台無しになった事には変わりはない。

これは非常事態であり、本来ならお世話になった大学の先生へ相談するのが妥当な所だろう。所が喧嘩別れ同然で札幌に戻った者であり、おいそれと相談できなかったのである。それに相談してから職の世話をしてもらったとしても、本州に行くのはほぼ100%であり、以後リストラなどがない限り北海道へ戻るという事はないだろう。

かねてから構想にあった大学院や専門学校への進学は当然ながら経済的に厳しいものがあり、何年も仕事をするなどしてお金を貯めないと実現できなかった。進学には家も支える事が条件であり、奨学金だけでは当然まかない切れない。当時数100万円もの資金でもあれば下手な職に就かず、間違いなく進学していただろう。その方がやり直しも利くだろうし、より納得のいける進路に進めた事だろう。それだけに当時は500万円借金してでも進学するとか、「ミ○オネア」に出て1000万円当てるとか実現困難な事をのたまっていたものだった。

その後2・3年は長くても何ヶ月か勤めては切られたりして他の仕事に移ったり、一時期はニート同然となった。年間3万人の一人になってもおかしくはないものというか、なって当然であった。現在大学の同窓会名簿では既に故人という扱いとなっている。当時同窓会名簿への登録案内が来たが、絶望的状況からの脱却は困難という事からという届けを提出した。そのため、現在に至るまで大学のOB会からの会報などは届かないし、今後ノーベル賞モノの実績でも挙げない限り再び届く事はないだろう。

以後、今日まで関係のない仕事をしていく事になるが、その間にインターネット投資やビジネスの可能性を追求できた事が救いだろうか。ただ、すぐに取り組めなかったのが悔やまれる所だ。未だ気持ちとして諦め切れないのは切られる際に納得がいかなかったものがあり、それで人生を台無しにされたという思いがあるからだろう。現在でもまだ回復したとは言い難く、やはり現状ではインターネット投資やビジネスでのセミリタイアでもしない限り納得ができない状態だ。

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