2001年12月の連勤記録 実は27勤!

前に2001年12月に最大の連勤記録を25勤程したと書いたが(「携帯電話(スマホ)製造で13連勤」参照)、実は27勤である事が改めてわかった。これは当時の12月給与明細をまとめたエクセルのファイルを確認した所、12月は5日のみ休みであり、更に1月1日も出勤して2日がようやく休みで3日が最後の出勤となっていた事がわかった。

12月は実に稼働30日で、平均労働時間は13・4時間にはなっていたでしょうか。いずれにせよ月間400時間は超えているでしょう。仮に月間400時間とすれば、時給800円・残業手当なしだとしても320,000円にもなる。更に時給1,000円であれば何と400,000円だ。これに残業手当や休日出勤手当が正式に付けば更に凄い事になるのは言うまでもないだろう。それだけ稼げればまだ頑張る気になれるのですが。

実際は1日分の稼ぎが下旬の2日を除いて1万円を超えた事はなく、平均すれば6・7,000円台でしょうか。これに更にガソリン代約1,000円を差っ引けば5・6,000円台である。これで実質月200,000円を下回るならば時給に換算すれば500円を下回るものであり、とてもでないがやってられないものがある。各種保険が全くない事も含め、将来を考えればこのまま続けるのは厳しいものであり、はっきり言ってもっと違う、もっと待遇がましな職に就くべきである。

そもそも12月までこの仕事をするはずはなかったのだ。本来であれば7・8月の短期雇用期間が終了してから北アルプスの縦走に行き、後述する失業保険を受給して他の仕事に転職するつもりでした。それが下請けの軽運送の社長に捕まってしまった。前年秋に3ヶ月だけ半導体工場にいたが、完全週休2日制である程度の残業を含めて最大月20万円近くになった。残業は最長でも2時間程度で、正社員ですので当然ながら各種保険は付いている。その当時と比べれば悲しくなる程のものがあり、是が非でも転職が求められた。

その半導体工場を含め、以前に勤めていた会社での雇用保険をかけていた期間が失業保険給付を受けられるだけあった。切りのいい所で2002年1月早々に退職し、失業保険の手続をして就職活動の態勢に入ったが、実際は始めたばかりのオンラインゲームにどっぷり浸かってしまい、就職活動は進まなかった。それ以前の超長時間労働の反動なのか、就職に対して希望を見いだせなかったのか。それでも秋には期間雇用であるが他の仕事に転職した。

同年秋に当時の職場に下請けの軽運送の社長宛に書いた訣別の手紙を届けた。それには「最低保証給30万円にしてくれなけれは仕事を引き受けない」とも書いたが、これでは30万円でも安い位である。もっとも、その下請けの軽運送の社長がそんな額を保証してくれるはずもないのは火を見るより明らかなのですが。まずは下請けの軽運送の社長のお世話になるという流れを断ち切って。かくして、その仕事からは完全に手を引き、現在に至る。

何よりの問題は工場勤務を切られたり辞めたりしたら、その後がつながらない点が問題である。文系就職をして心機一転をすればいいのかというと、営業もダメ運送もダメという感じであり、どの様な仕事をすればいいのかという問題にぶち当たるのである。もっとも、当時からインターネットの可能性を先見し、サイト作成や運営などの可能性を追求できていれば違っていたのでしょう。

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