当管理人の母が亡くなる 当日の状況

先月30日の22時過ぎ、当管理人の母が亡くなった。享年85歳で、左乳癌でした。7月に診断を受けてからは急速に弱っていき、これまで散歩ができたのが歩けなくなった。24日に見舞いに行った時はまだ車いすで動けて、歩行のリハビリも行えていた。所が30日病院から容態が急変したと連絡が来て、午後に姉と2人で向かった。嘔吐して誤嚥してしまい、熱が上がってしまったという。

母は病室のベッドで酸素吸入して横たわっている状態で、これまでと違い明らかに苦しそうである。声を掛けたら頷くが、明確に会話ができない状態である。この日の夕方に緩和ケア病棟に移動すると言われた。これまでは4人部屋でした。

当初回復して退院したら他の福祉施設に行く様段取りをお願いされたが、面談で担当の先生からその話はなかった事にして欲しいと言われ、最後まで病院で面倒を診てくれる事となった。残念ながら覚悟を決めなければならない段階にきた。17時30分に3階の緩和ケア病棟の個室への病棟移動が行われた。

姉が一晩付き添いをするという事で母の横に座り、自分も座った。そして母に何度も声をかけた。途中姉がスーパーに買い出しに行ってくれて、戻って来てからカンファレンスルームで交代で食事をした。姉から無理しないで帰っていいと言われ、何かあったら連絡すると言ってくれたが、応じずにそのままいる事にした。

21時を過ぎるとそろそろ寝る時間になりそうですが、呼吸が弱くなった様だ。22時近くに呼吸をしていない様なのでナースコールをした。医師も駆けつけてくれ、22時過ぎに死亡宣告された。緩和ケア病棟に移動して僅か数時間で亡くなった。尚、延命治療は希望しなかったため、行われなかった。途中で帰っていたら死に目に会えなかった所でした。最後の言葉はなかったが、中旬までは来た時に自分の名前を呼んでいた。

姉が葬儀の手配や連絡を行ってくれた。病院の方で遺体を清拭していただき、その間カンファレンスルームで待機した。2時頃にセレモニーハウスの担当の方が来てくれて、遺体を搬送し一旦自宅近くの会場に運ばれた。自分たちは家に戻った。1日に打ち合わせを行う事となった。

せめて長患いしなかったのが救いだったというか。施設に入るとなると経済面でもきつくなる問題が大きい。数年前に骨折で入院してから認知症の症状も進んできており、3年程前に運転免許も返納した。又、1・2程前にコロナウイルスにかかった事もあったが、それ以外の検査の方が手薄となった。

もし当管理人が大学時代に担当教授の指導通り道外の北東北のある県に就職し、東日本大震災をも乗り越えて今日まで勤め上げられたなら、間違いなく母の死に目に会えなかったでしょう。更に最悪の場合、母の葬儀にも出られなかった可能性もあった。母の世話も姉に一方的に負担がかかる事となり、戻って手伝わなければ関係悪化にもなりかねないものでした。

道外就職は就職氷河期で仕方なかったとはいえ、いずれ札幌にUターンする可能性も考え、それに向けて行動する必要があった。自分が65歳定年の時に母が生きていれば100歳目前となるので、今回の様にその前に亡くなる可能性も高かった。道外でUターンせず定年まで勤め上げるならば、震災も含め覚悟と犠牲が必要となろう。

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